北米ギター放浪記 LAへ 2014年6月19日 サンフランシスコからLAというと、同じカリフォルニア州内の移動なのでそれほどの距離がないように感じますが、実は、カリフォルニア州だけで日本全土より面積が広いのです。若い頃に二度この間を往復しましたが、高速をほぼノンストップで6時間は掛かり、できれば途中で一泊したいぐらいの距離なのです。ただ、この日は移動日ということで夜の予定は特になく、最悪、お世話になるT夫妻が起きている時間内に到着すればいいということだったので、気は楽でした。余裕を見て朝8時にサニーベールのモーテルを出発し、レストエリアがあれば必ず立寄ってトイレがてら歩き回り、お腹が空けばフリーウェイ沿いに見えるハンバーガーやピザの看板を頼りにフリーウェイから降りるという具合に、気分転換を最優先しながら少しずつ南下していったのでした。 途中、アバウトだったコロラド州での予定が少しずつ決まり始め、当初行く予定にしていたテネシー州メンフィスの代わりにアーカンソー州リトルロック近郊の町に行くことが決まるなど、徐々に先の日程も埋まり始めました。また、この頃には運転の勘もすっかり戻り、一ヶ月前に免許を取得したばかりの初心者ではすでになくなっていました。ただ、一応中型車なのですが、小型車のようにハンドルの遊びがほとんどなく、ちょっとした動きに反応してしまうのに慣れるのはもう少し掛かりそうです。以前乗っていたのは、ほとんどが日本で言う5000ccクラス以上の中古大型車だったので、このような小さい車そのものが初めてだったのもあるでしょう。 T夫妻は、日本で私のCDを購入して頂いた方から紹介され、日本人であるということ、以前アップル関係の仕事をしていたことぐらいの情報しかありませんでしたが、アメリカ住まいも長いとのことだったので、日本のように打ち解け始めたらサヨナラなんてことはないことを期待しつつ、こちらも失礼がないように襟を少し正しました。 LAが近付くに連れてフリーウェイの車線数が徐々に増えていき、相応に交通量も増えてきました。1992年にポートランドからLA入りした時は、交通量の多さと運転の荒さに煽られて蛇行していたところをハイウェイパトロールに捕まり、強制的にフリーウェイから降ろされましたが、今回は休憩を十分取りながら来たのでそのようなこともなく、途中T氏と出口確認などの電話をしながら、明るいうちに無事到着と相成りました。到着後に、近くのオープンテラス形式のレストランに連れて行ってもらい、ほぼ一週間振りの日本語での会話も徐々に弾み出したのでした。 T氏は私と同じ九州出身、しかも同い年、アップルで仕事していたなど共通項の多い方で、少なくとも私の方はすぐに和みました。ちなみに、私はアップルでは働いていませんが、アップルから出る文書の翻訳等をやっていて、合格率7%という翻訳試験にも受かったぐらいアップルには頻繁に出入りしていました。この試験に受かった後に仕事が減っていったのは皮肉なもんですが、その時の完全に見下したような態度がどうしても腑に落ちず、私の方から引いていった可能性はあります。 *文中に登場する人物は、本人の確認が取れるまではイニシャル表記にしてあります。 |
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はじめに
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