北米ギター放浪記 カリフォルニアへ 2014年6月15日 シアトルに住んでいた頃の行動範囲はダウンタウンより北がほとんどで、南に向かうのは空港か知り合いの京料理屋のソフトボールの試合に行く時ぐらいでした。当時のシアトルでは、日本の雑誌や漫画などは数週間遅れのものが定価の倍以上の価格で売られていました。今のようにネットがある時代ではなかったので、日本の情報に飢えていたのでしょう。日本からの直行便の客が持ち込むのを目当てに空港には度々行っていました。ソフトボールの方は、遊びではなくまさに真剣勝負でした。特にその京料理屋の永遠のライバルとも言えるタコマにあるレストランとの試合は、意地と意地のぶつかり合いでそれは激しいものでした。負けた時の悔しさは、最後の夏の大会で負けた時に匹敵するほどでした。 空港からさらに南に少し行ったところにあったワインバーで開かれていたオープンマイクにも何度か参加しましたが、こちらはどの辺りだったかも忘れてしまいました。このバーの常連だったグループによるマンハッタントランスファーは、絶品でした。楽器はアコースティックギターにウッドベースだけでしたが、ハーモニーもまさにマンハッタントランスファーで、アメリカのローカルバンドの底力を思い知らされたものです。ちなみに、初代マンハッタントランスファーの女性の一人はワシントン州出身だったと記憶しています。 道も思っていたほど混んでいなかったので、ほぼ予定通りにオレゴン州ポートランドに到着し、ランチを一緒することになっていたD氏に到着したことを伝え、指示された場所まで移動して待っていると、現れた彼は私の娘より若い方でした。まさか、いきなり若者に御馳走になるとは思っていませんでしたが、ここは甘えさせて頂くことに。9月にシアトルに戻ってきた段階で何かできればといくつかの企画を見せてくれましたが、結局これらは実現しませんでした。 この日の最終目的地はカリフォルニア州の北端にあるレディングという街でした。この街在住のN氏がギターを弾いてくれれば飯と宿は面倒見てくれるということになっていました。D氏と一時間ほどのランチを楽しんでからさらにI-5を南下し始めたのですが、ボリュームのあるハンバーガーで腹が満たされたのが徐々に効き出し、ポートランドを出て一時間もしないうちに眠気が襲ってきました。事故っては元も子もないのですかさずレストエリア(日本でいうサービスエリアのようなものですが、大抵は無人でトイレと自販機があるぐらいの施設)に入って休むことに。 30分ほど仮眠してから出発するつもりでしたが、トイレに行った帰りに「どこから来た?」と話し掛けられ、その後小一時間話し込んでしまいました。その後も繰り返し襲ってくる睡魔と戦いながら南下を続けましたが、結局カリフォルニア州に入った時点ですでに深夜少し前となり、N氏は翌日の仕事があるのでこの日に会うことは叶わず、あてにしていた飯も宿も水泡と帰しました。いきなり空振りです。罰としてこの日はレストエリアで車中泊と相成りました。 *文中に登場する人物は、本人の確認が取れるまではイニシャル表記にしてあります。 |
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はじめに
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